昭和45年3月11日 夜の御教話
末永静行
信心をさせて頂く者の幸福というか、信心させて頂く者の幸せというものが、いつも、しみじみと感じられるということは、これに越した幸せは無いんですが、まあ、せめて、とりわけ、御祈念をさせてもらう時だけぐらいは、しみじみ信心させて頂くこの喜びは、感じられるようなところまでは、一つ信心を進めたいと思うですね。神様の前に出りゃ、泣き言をならべる、神様の前に出りゃ、願い事だけに終始するといったようなことでは、幸せは感じられないと思うですね。
もう、神様の前に出りゃ、まあ、信心を頂いておる者の幸せが、いつも自分の心の中に、なんとはなしに、ある。それが、心の焦点を神様へ向けて、御祈念をする時などは、もう、いよいよ本当に信心させて頂く者の幸せは、ここにあるなあと思わせてもろうて、もうしみじみと、ちょっとお礼させて頂こうと思うと、やっぱり、ちょっとはそっとでは済まんぐらいにですね。御神前の座が立たれんぐらいに、お互いそういうようなおかげを一つ受けたいと思う。
私今朝から、朝の御理解を頂いて、最近、合楽で信心のけいこをしてある方達は大変なことだなあと思うんですね。まあ、言うならば、ここで20年間私が、説きに説いてきた、いわゆる、あれは、全部和賀心、最近の言葉でいうと和賀心学なんですよね。その和賀心学の言わば、総仕上げとも思われるようなことが、今年は、言われておる。言わば、叫ばれておるということ。
それがね、最近教団で、しきりに言われます。教会の体質改善ということを言われておりますですね。お互いの信心の体質改善、教会の体質改善、まあ、私は、そりゃどういうようなことだろうかと自分で思うておったんですけれど、分からんのが当たり前だと思ったんです。なぜって、合楽は、もう、体質改善しなくても良いほどに、おかげを受けておるからだと私は思うですね。今朝の御理解を頂きよって、それを思うんです。ね。
例えば、泉尾の教会のまあ、それこそ、現在、日本一と名実ともに言われるあちらの教会のことを例にとらせて頂いても、何十年間をです、願いに願い願い続けておいでられた教会だと言う。なら教会があのように立派に出けたといことも、願いに願って出来られたということなんです。ね、そこのところがですね、私は、体質改善しなければ、その、それもいけんのだと。今までの信心ならそれでいいけれどね、これが本当に、世界の隅々、世界の総氏子にそれが呼びかけられる。どこの何国の人でもです、なるほどと合点がいくような信心ということではないからです。願いに願ったという信心ではね。
ですから、もう、根本的にですね、回れ右して、いわば願わずにして、建ったお広前、それを、今日、合楽の教会の例をとりましたですね。ね、とにかく、もう、願う。例えばなら教会が立派になるとか、信者がたくさんできるとかと、ということだけを願いとしておる教会は、これは、もう、本当に根本的に体質改善を心がけなければいけないということ。ね。願うということ。そんなことは、願わんでも、例えば、中心の信心の例えば、姿勢といようなものが正されたら、いわゆる、限るです。人は助かるだろう。助かればそこに、自ずとお広前が広くなるだろう、立派になっていくだろう、それを聞き伝えた信者は、段々増えていくだろうということ。願わんでも、頼まんでもですね。そういうところにです、体質改善の根本的なところの信心。
信心は、例えば、悲しい時に、神頼みをするのが、信心だということがです、いかにそうじゃないと言うとっても、それがただ、伸びていった成長していっただけのことなのです。それなんかはなしに、粉飾していっただけなんです。ね。ただ、やっぱ、願って願ってと。それが、いかにも理解付けられて、立派のようにあるけども、そこのところから間違うてきておる。ね。
信心は、もう、どこまでも、本心の玉を磨くものであリ、信心とは、どこまでも、日々の改まりである。そこから、生れてくる和賀心なんだ。だから、そこんところに、焦点を置き換える以外にはない。そこんところが、やはり体質改善というならば、、もう体質が全然変わってしまう程しに、おかげを受けなければならんというのですから、根本的に変えられなけりゃならない。ね。
ですから、なるほど、なら、私ともが痛ければ痛い、痒ければ痒いで、そりゃ願い事はありますよ。ありますけれども、その願い事がです、和賀心に一辺問うて見てからの願いでなかなけりゃならん。ね、また、願ったら、願った事は、もう、そのままお任せしてからの願いでなかなきゃならん。そして、私は、ね、それとは、違った意味においての、いわゆる、心の上にいよいよ反省を加えていく、改まっていく、磨いていくことに焦点させて置かせてもらうというように。
私は、自分で今日思うのに、私は、そういう信心なのだから、このように有り難いのであろうとこう思います。また、神様の前に座って、頼まにゃならん願わなんならんというのでは無いですもんね。うん、それって、頼むこともありますよ、願う事ありますよ、けれども、本当に信心させて頂く者の幸せをしみじみ感じてからの願いなのである。うん、お礼を芯から申しあげてからのまた願いなのだ、また、お詫びなのだと、言うところにですね、信心させて頂く者の幸福というものをしみじみ感じられるのじゃなかろうかというふうに思うですね。
なら合楽に信奉させて頂いておる人がみんな体質改善が出けておるというわけではございませんからね、お互いが本気で、体質改善のところを一つ、願うていかなきゃならんと思うですね。どうぞ。
末永静行
平成19年3月20日